« 生命が弛緩してはいないか? | トップページ | 続・霊主体従を考える。 »

2024年9月18日 (水)

霊主体従を考える。

今朝は6時45分の電車で五反田へ。

なぜか、やたら混んでおりました。

7時10分にはいつものカフェに到着したのですが、こちらもいつもよりも混んでいた。

今日は何かあったのかな??

 

 

 

ネットフリックスで、「サンクチュアリ」というドラマを観ております。
「面白いから絶対に観て」と、奥さんが会社の方から聞いたようで。

昨夜が7話目くらいだったかな?
面白くなってきました。

 

でも本命は、5回目くらいのプリズンブレイクです。
意外と忘れている部分もあり、やはり面白い。
特にシーズン1は、恐ろしく面白い。

 

ドキドキします。

 

本日ご来院のアイさんもプリズンブレイク好きとのこと(*^^)v

アイさんも、「また観ようかな」とのことでした。

私は今夜、いよいよ脱獄です(*^^)v昨夜は観ながら寝落ちしてしまった…

Istock2114506677

 

 

 

「力の抜き方が解らない」という人は、今とても多いです。

これも時代だと思っております。
私が開業した2007年頃と今とでは比べ物にならない数の人が、力の抜き方が解らない。

Istock1064027420

美容室のシャンプー台で、首の力で頭を支えてしまう人いませんか?
逆に、「力を抜いて」と言われると、頭を押し付けちゃったり(笑)

以前、美容師さんも言っておりました。

「力の抜けない人が多いんだよ」と。

 

身体のコントロールが利かなくなっているのです。

「頭が良過ぎる」という表現も合っているように思います。

日頃から、頭で考え過ぎるとか。

 

力の抜き方が解らないというのは、「自分が解らなくなっている状態」とも言えます。

つまり、「自分を見失っている状態」ですから、体調不良に陥るのも仕方がないとも言えます。

 

 

痛めること、病むことの意義は、「自分を省みることができる」ということです。

ツライ症状があると、自分の身体とイヤでも向き合うことになりますから。

痛みを避けることに奔走すると、自分と向き合う機会を失うことになります。

つまり、「痛み止め」の乱用が、機会損失となるのです。
薬が自分を省みる機会を奪うのですから、引き続き自分を見失ってしまう状況が続くこととなります。
いずれ痛みはなくなりますから、「自分が解らなくなっている状態のまま痛みから解放される」わけです。

 

なんか嫌ですよね(笑)m(__)m

でも現実、とても多いです。
治療院を開いて17年ですからいろいろと診させて頂いて来ましたが、2007年頃よりも人間の脆弱化が進んでいるように感じます。

身体の質も、変わってきていると思う。

 

 

 

先ほどなんとなく、「自分の身体」と書いてしまいました。

では、「自分」とは一体なんでしょうか?

「何が自分」なのでしょうか?

力が抜けない自分がいるとして、その力を入れている自分とは、一体なんでしょうか?

 

 

神道には、「霊主体従(れいしゅたいじゅう)」という考え方がある。

そこに大きなヒントがあるように感じます。

観えないものが「主」であり、眼に見えるものが「従」ということです。

 

 

「体」の語源は、「殻だ」です。
「空だ」「枯だ」とも言われております。
つまり、「空っぽ」を意味するのが、「体」です。

要は、「体」というこの漢字は、「死体」を意味します。

殻に「なにか」が入れば、死体ではなくなる。

その「なにか」が、自分と言えそうです。

 

「身」は「実」です。

そこで、「身体」という言葉が使われるようになりましたが、これも当て字です。

ただ死体の「体」よりも、何となく使い勝手が良く、私は「身体(からだ)」と書くことが多くなりました。

 

もともと、戦前のからだは、「體」でした。

「骨が豊か」で「からだ」だったのです。

 

「肉が豊か」ではなく。
E_acqryucacdmi4【ここまで行けば肉も主となり得るのであろうか(笑)】

現在は、だれかれも、「筋肉筋肉」と言っておりますが、筋肉など別に重要ではありません。
もちろん、道具としては大切ですが、最重要か問われたら、「別に」です。
肉は物質です。

霊主体従の「体」は、「物質」のことです。

つまり、筋肉は物質であり、あくまで「従」ですから、自分ではない。

じゃあ骨は?

骨も「自分」とは言えないでしょう。
ただし、最期には骨が残ることを考えますと、骨には何か「主」に繋がるものが宿りそうな気がします。

 

 

その宿るものが、魂とか精神とか、そういうコトなのでしょう。

心とは違う。

よく、「精神を練り上げる」と言います。

心はコロコロと簡単に移ろうもので、「心を練り上げる」とは言いません。

 

私の好きな魂の定義に、「魂とは肉体を拒絶する何ものかである」という、フランスの哲学者アランの言葉があります。

そういう意味で考えると、心は「物質」であり、「従」です。

今は「従」である心(物質)に振り回されている人は多いです(かくいう私がそうですが何か…(-_-;))
イライラ、クヨクヨなどの感情です。
感情(心)に振り回されるのは、やはり精神の鍛錬が甘いのだと思います。

 

感情に価値はありません。
感情など、生まれた時からあるからです。

 

では、精神は?

そう問われると、やはり「精神は築くもの」だと気づかされます。
練り上げるもの。

そこには努力が伴いますし、努力という行為は、人間にしかできないものです。

動物に努力はできないし、動物に努力など存在しません。
本能だけです。

努力できるのは、人間だけです。
その努力こそが、精神を築き上げて行くのです。

 

だから精神には価値がある。

 

 

心は、常に楽な方へ行きたがる。

肉体が楽な方へ流されそうな時、「待て」と立ち止まることができるのは築き上げた精神の働きです。
でなければ、簡単に人は楽へと流されます。

 

 

肉体を拒絶する何ものかが「魂」ですから、つまり、魂には上限がない。
無限に究めて行けるのが魂と言えるのではないでしょうか。

その魂こそが、自己(自分)と言えるでしょう。

 

魂と精神はまた別物でしょう。

でも、その違いは?と問われると、どのように書けば良いのでしょうか?ちょっと難しい。

 

「あの人は精神力が強い」と言いますから、その精神力を根底から支えているものが魂と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

精神や魂と呼ばれるものが「主」であり、つまり「霊」です。

この目には見えぬ霊こそが、己です。

 

自分を見失うとは、肉(物質)に囚われ過ぎているということになります。

 

 

物質は道具です。

筋肉も道具です。

道具は利用するものです。

より良く生きるために活用するものが道具のありようです。

でも、現代を冷静に見渡すと、道具(物質)が神になっているように感じるのです。

 

お金に振り回されてしまう人間が多いのも、お金という道具が神に成り代わり、崇められているからでしょう。

お金は大切なのは言うまでもない。

道具を大切にしない者は、道具からも愛されないでしょう。

それは野球選手がグローブを大切に磨くのと同じです。

そのグローブを大切にする人の精神が主なのです。

 

 

今は「投資しろ投資しろ」と国をあげて叫んでおります。

「霊主体従」ならぬ、「体主霊従」に陥ってはおりませんか??

 

 

本当に大切にしなければならないことを、見誤ってはなりませんね。

 

 

着地しないまま、着地します。

 

 

 

明日19日(木)は、13時~17時まで治療院を閉めます。
院にはいるのですが、主催するアカデミーの方の個人指導が入っておりますので。

 

今日も、もうひと息です。

最高の一日にしましょう!!

|

« 生命が弛緩してはいないか? | トップページ | 続・霊主体従を考える。 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 生命が弛緩してはいないか? | トップページ | 続・霊主体従を考える。 »